瀬戸焼の招き猫について
瀬戸焼の招き猫の歴史
愛知県の瀬戸焼の招き猫は、日本初の招き猫工業生産として「明治中期」に始まりました。
白い肌の磁器製で造られ、大きさは手の平に乗るくらいの大きさ、形や絵付けも単純でした。
それらは、「水に浮く金魚」「福助人形」「稲荷狐」などと一緒に、縁日や露天などで子供向けに売られていました。
丸山陶器の「山城柳平」は、明治33年に郷里の山梨から瀬戸の陶器商に丁稚奉公に出て、努力の末に成功しました。
食器類が中心だった瀬戸で人形の可能性に早くから着目し、のちにビスクドールやドレスデン人形など精緻なノベルティ製造と大量輸出に成功しました。
射的のマトとしか見られていなかった招き猫の未来性にも着目し、上司に「これからはおもちゃの時代になる」と直言した。
また、窯屋が持ってきた招き猫の見本を「この顔はイカンな、こんな顔の猫では金を招けんな」と、自ら筆をとって手直しをしたという話もあります。
「大正後期から昭和初期」になると、特大サイズの招き猫の生産が始まりました。
なお、古瀬戸の前垂れの絵付けの華やかさは「九谷焼」から来ている可能性が高いようです。
瀬戸の招き猫は主に輸出用に作られていましたのですが、欧米向けにノベルティを輸出する中で初めて「ペア」という概念が生まれました。
西洋のインテリアには「置物を対で飾る」という伝統的なスタイルがあります。男女のペア、動物のペア、招き猫に右手挙げと左手挙げが生まれたのも、実は並べて飾ったときのバランスを重視する「ペア」から来ているのではないかという説もあります。
「昭和50年代」になると、海外へのノベルティ輸出は最盛期を迎え、やがて衰退していきました。
一方、国内では猫ブームとあいまって招き猫の人気がどんどん高まっていき、常滑タイプからファンシーグッズ的なものまで、多種多様な招き猫が作られるようになっていきました。
瀬戸焼の招き猫の特徴
「瀬戸焼の招き猫」は、
◎常滑焼に比べて装飾性が高く、どちらかというと女性的
なのが、大きな特徴になります。
「招き猫百科」より